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日々の雑感を書くブログです。

「気が合う」という幻想

「気が合う」という概念は幻想に近いものではないか、と思ったので書き残します。

まず、「気が合う」かどうかというのは、その人と知り合った場、時間、体調、仕事や学業の都合などのコンテクストによって左右されるはちゃめちゃに軟体で敏感な観念だと思います。その時はまっている趣味が将棋であれば将棋が好きな人に関心を寄せるだろうし、その時働いている職場にいないタイプの人がいれば、そのに新鮮味を感じて近づくこともあるでしょう。なので、「うまが合う」みたいなものは、心の奥深くの変え難いなにかで通じ合う、的なものでなく、とても表層的なものではないかと思う次第です。

そして、特に「ウマが合う」というのは、忙しくて心に余裕が無い時など、心の容量が圧迫され判断力の鈍くなる時に感じるものだと思います。

心の支えになる人=自分の存在を確かめられる人、を求め彼/彼女を通し鏡として自身の姿を映し出すことで、自分の社会における現在位置や、自身の存在する意義のようなものを見出すのではないでしょうか。、

一方で、そのような「鏡像」たる他者というのは、そう簡単に巡り会えるものではないはずです。私たちは個々人が異なった感性や生い立ち、身体的な特質を持っています。私たちはしかし、案外簡単に「鏡像たる他者」=気の合う人というものを見出し、交流をはかっています。そしてこの鏡像たる他者というものが私たちのつくりだした単なる幻想ではないかと思います。

気の合う人という存在は、頭の中にぼんやりと構えられた、「鏡像たる他者」という空想上の理想的な人物像から、その像の影の曖昧な輪郭に少しでも合致した人間に「気の合うひと」というラベルを張りつけ、「気が合う」と名付けているだけなのではないでしょうか。

つまり、ある他者がいて、彼に関するなんの情報も持ってない場合、かれは「気が合うか/合わないか」の両方の可能性を持っています。彼は存在しているようで、

心理的スコープ上には存在していないも同然です。

なぜなら、彼の「像」=パーソナリティが見えないため、自信の持つ「鏡像」とどのくらい合致しているか分からないからです。このシュレディンガーの猫的な状態、ふたつの可能性がありそれが決定されないまま同時にふたつの状態をとっているかれを私たちは「気の合う人」という状態に押し込めたい。なぜなら、その方が心理的に安定するから。

人は、誰しも気の合う、鏡像的他者を求めている。そして、その可能性を秘めているかれを、「気の合う」カテゴリに押し込めたい。そのカテゴリに内蔵されたかれと仲良くなりたい=かれをとおして「私」を知りたい。

その希求の大きさがノイローゼに繋がるのではないかと思うし、その希求が大きくなる背景には、生きてきた歴史の中に「鏡像的他者」を親や友人の中に持てなかったからではと思います。

そして、そういう人は、妄想としての鏡像を妄想と自覚することなく、それを追い求める。追い求め反復するるうちに、妄想だった鏡像は輪郭をくっきりと濃くしていき、とても具体的な像を成していく。そして、その具体像にかなう「理想的な他者」を追い求めるし、それに少しでもそぐわない彼/彼女を貶める。

理想化と脱価値化はそのようなメカニズムを持っているのでは無いかと思います。なので、鏡像の解像度は低い方が良いし、なんなら、鏡像を複数持った上でそのバリエーションを増やすことがキモなのではと思います。

いろんな「自分の鏡」をもって、その鏡を通して自分を知る。そういう作業って大事だよなあと思います。

なので、私たちにできることというのは、「気の合う」範囲をなるべく広くして、「気の合う人」という幻想にかなう仮定された鏡像を多く持つ。これによって、「気が合う」に決定される無数のシュレディンガーの彼/彼女を持つことになるのではと思います。

雑にまとめれば、気の合う人を見つけたければ、まず自分の価値観を広げることが大切だし、私たちは本来的にお互いを分かり合えない存在だけど、分かり合おうとすることはできるし、「わかりあった存在」として他者を、自身の仮想的な鏡像を通してつくりあげることはできる。そして、その鏡像の輪郭を知ることや、様々な鏡像を知るための手段としてコミュニケーションというものがあるのでは、ということが書きたかったです。