ohtrix

日々の雑感を書くブログです。

グリーンネイル

まだ乾き切っていないペンキは、私の立てた爪で簡単に剥がれた。私はジャングルジムの中にいた。まだ組み終わっていないジャングルジム。

去年グリーンネイルになってから、今でもふとした瞬間に治っているはずの親指が緑に見える時があって、その度にヒヤリとする。それなら最初から緑にしてしまおうと、最近はオリーブ色のネイルを塗るようになった。

名前は実態に影響を与える。名は体をあらわすのではなくて、体が名に引っ張られていく。それは緑膿菌もジャングルジムも同じだ。

ネイルの手入れ不足などが原因で緑膿菌は繁殖し、爪にカビが生えたような模様をつける「グリーンネイル」を引き起こす。緑に膿む菌。シンプルだけれど、それがゆえのおどろおどろしさを感じる。

緑膿菌は人間の体に常在する菌で、日和見を狙った卑怯な手口をとる。弱いものを攻撃してはならないという人間の道徳律に平然と逆行する姿勢を「自然の摂理」で片付けてしまう乱暴さが嫌。ジャングルジム。熱帯雨林のジム。人名?ジャングルに住む、ジム。英語の教科書でしか見たことの無い名前。

つながりあった空白の立方体は私が爪で剥がしたところ以外はきれいに黄色に塗られている。まるで空中にグリッド線をひいたみたいで、その中にいる私はコンピューター・グラフィックスの設計図に組み込まれているような気分だ。

爪の先からポリゴンに変性していく私の体は8bitにマウントをとる。しかしファミコンに売上総数とアイコンとしての絶対性で適うことはない。大事なのは純粋な能力値よりも実績と権威。東大卒も使えなきゃ意味がないんですな。そう物質主義の象徴たる勢いで語るファミコンもといNintendo Entertainment System通称NESアメリカで付けられた名前。

US版のファミコンはグレーの筐体でwiiみたいにシャープな出で立ちをしている。私はジムにそう説明した。ジムは熱帯雨林に暮らし、スマトラオオコンニャクを住処にする腐肉昆虫の仲間だった。ジムの輝くエメラルドグリーンの翅は、ブーンと音を立てたが、これがあいさつ代わりだろうか。

開花したスマトラオオコンニャクの全長は3mを超え、このジャングルジムと同じくらいの高さになる。別名をショクダイオオコンニャクというように、まるで燭台のようにどっしりと土台をかまえ屹立する姿は相当な迫力がある。

ジムのような腐肉昆虫は、オオコンニャクが開花期に発する腐臭に反応し、べろのように赤くぐにゃぐにゃと膨らみながらとそびえ立つ二対の巨大な花弁におびき寄せられる。虫媒花であるスマトラトオオコンニャクは、彼らの協力のもと子孫を後世に残す。しかしジムは、そのような「摂理」の埒外で暮らしていた。

ジムは花の中に居を構え、花の香りを嗅ぎながら別の飯を食う「ダクト飯」方式でスマトラオオコンニャク生活を謳歌していた。しかし、開花期は数年に一度、しかも2日間だけ。ジャングルジムに咲くオオコンニャクはじきにポリゴン融解を起こし、コンピューターグラフィックスの一片に変わる。グズグズしている間にジムも16bit次世代機の粗い3D映像に組み込まれてしまうだろう。ジムは初代ファミコンが好きだった。8bitのままでいたかった。

ジムは最後の「ダクト飯」を終えると、満足そうに笑い、私の緑色のネイルの周りを数回飛んで回った後、天高く舞い上がっていった。次の瞬間、当たり一体に激しいスコールが降り注ぎはじめた。雨の勢いでジャングルジムの塗りたてのペンキははがれ落ち、支柱を失ったように鉄骨も溶け、水溜まりの中へ吸い込まれるように消えていった。空気を切り裂くようなグリッチノイズが鳴り響き、役目を終えたようにスマトラオオコンニャクは花を萎ませた。私はそれを、デスクトップパソコンのモニタ越しに見ていた。

私が通っていた中学の英語の教科書は、表紙に中国風の龍が描かれていた。和洋折衷の緑をして、『New Horizen』のポップすぎる書体に迎合しようと窮屈にしているのが愛おしかった。私のネイルよりずっと濃い緑をしていた。

 

 

「気が合う」という幻想

「気が合う」という概念は幻想に近いものではないか、と思ったので書き残します。

まず、「気が合う」かどうかというのは、その人と知り合った場、時間、体調、仕事や学業の都合などのコンテクストによって左右されるはちゃめちゃに軟体で敏感な観念だと思います。その時はまっている趣味が将棋であれば将棋が好きな人に関心を寄せるだろうし、その時働いている職場にいないタイプの人がいれば、そのに新鮮味を感じて近づくこともあるでしょう。なので、「うまが合う」みたいなものは、心の奥深くの変え難いなにかで通じ合う、的なものでなく、とても表層的なものではないかと思う次第です。

そして、特に「ウマが合う」というのは、忙しくて心に余裕が無い時など、心の容量が圧迫され判断力の鈍くなる時に感じるものだと思います。

心の支えになる人=自分の存在を確かめられる人、を求め彼/彼女を通し鏡として自身の姿を映し出すことで、自分の社会における現在位置や、自身の存在する意義のようなものを見出すのではないでしょうか。、

一方で、そのような「鏡像」たる他者というのは、そう簡単に巡り会えるものではないはずです。私たちは個々人が異なった感性や生い立ち、身体的な特質を持っています。私たちはしかし、案外簡単に「鏡像たる他者」=気の合う人というものを見出し、交流をはかっています。そしてこの鏡像たる他者というものが私たちのつくりだした単なる幻想ではないかと思います。

気の合う人という存在は、頭の中にぼんやりと構えられた、「鏡像たる他者」という空想上の理想的な人物像から、その像の影の曖昧な輪郭に少しでも合致した人間に「気の合うひと」というラベルを張りつけ、「気が合う」と名付けているだけなのではないでしょうか。

つまり、ある他者がいて、彼に関するなんの情報も持ってない場合、かれは「気が合うか/合わないか」の両方の可能性を持っています。彼は存在しているようで、

心理的スコープ上には存在していないも同然です。

なぜなら、彼の「像」=パーソナリティが見えないため、自信の持つ「鏡像」とどのくらい合致しているか分からないからです。このシュレディンガーの猫的な状態、ふたつの可能性がありそれが決定されないまま同時にふたつの状態をとっているかれを私たちは「気の合う人」という状態に押し込めたい。なぜなら、その方が心理的に安定するから。

人は、誰しも気の合う、鏡像的他者を求めている。そして、その可能性を秘めているかれを、「気の合う」カテゴリに押し込めたい。そのカテゴリに内蔵されたかれと仲良くなりたい=かれをとおして「私」を知りたい。

その希求の大きさがノイローゼに繋がるのではないかと思うし、その希求が大きくなる背景には、生きてきた歴史の中に「鏡像的他者」を親や友人の中に持てなかったからではと思います。

そして、そういう人は、妄想としての鏡像を妄想と自覚することなく、それを追い求める。追い求め反復するるうちに、妄想だった鏡像は輪郭をくっきりと濃くしていき、とても具体的な像を成していく。そして、その具体像にかなう「理想的な他者」を追い求めるし、それに少しでもそぐわない彼/彼女を貶める。

理想化と脱価値化はそのようなメカニズムを持っているのでは無いかと思います。なので、鏡像の解像度は低い方が良いし、なんなら、鏡像を複数持った上でそのバリエーションを増やすことがキモなのではと思います。

いろんな「自分の鏡」をもって、その鏡を通して自分を知る。そういう作業って大事だよなあと思います。

なので、私たちにできることというのは、「気の合う」範囲をなるべく広くして、「気の合う人」という幻想にかなう仮定された鏡像を多く持つ。これによって、「気が合う」に決定される無数のシュレディンガーの彼/彼女を持つことになるのではと思います。

雑にまとめれば、気の合う人を見つけたければ、まず自分の価値観を広げることが大切だし、私たちは本来的にお互いを分かり合えない存在だけど、分かり合おうとすることはできるし、「わかりあった存在」として他者を、自身の仮想的な鏡像を通してつくりあげることはできる。そして、その鏡像の輪郭を知ることや、様々な鏡像を知るための手段としてコミュニケーションというものがあるのでは、ということが書きたかったです。

 

犬蒙昧史

 


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「chosen」の誕生による犬イメージの変遷について

 

2022年4月
現代文化犬類学研究所

 

    犬は、1980年代初頭から終わりにかけて一般的となった「犬生成簡易キット」により、それまでの猫派優勢の状況を押しのけ、一挙に日本のペット市場を独占することとなった。

    母犬からの分娩により生み出される犬を「胎生犬」と呼ぶのに対して、専用生成具により生み出される犬は、英語圏では「chosen dogs」、あるいは単純に「chosen」と呼ばれている。

    これを邦訳し、我が国ではこれらを選択犬と呼ぶのが一般的であるが、その語源は、生成具により生み出される犬が人為的に「選択」された容姿や能力を有するためである。

     chosenらは、従来の親犬からの遺伝情報や飼育環境によりランダムに決定されていた1匹1匹の個性が徹底的に操作されている。しかし、chosenはそのカスタマイズの自由さとは裏腹に、極めて画一的な性格特製及び外見的特徴が目立つことがあり、これにより「chosen」という単語は単純な一般名詞としてでは無く、形容詞的に用いられることもある。

    例えば、一般的なchosenは毛量の少ない白地に黒ぶちで、5-60cmほどの体躯に小さな泣き声といった特徴(これらは人間の室内飼育環境に適応した特徴である)を有するが、これに該当する犬は自然分娩種を含めて「chosen」という名で呼ばれることがしばしばであるし、「dog」という一般名詞により喚起される犬イメージはこのchosen像にかなり寄ったものとなっている。

    1980年代以前に我が国で発表された犬のキャラクターには茶色のふさふさした体毛やくっきりした顔立ちをもつ所謂「日本犬」的なイメージをベースに作られることが多かった。

    しかし、生成具によるchosenの頭数が増え始めた80年代中盤から後半にかけて、白地に黒縁で、室内飼いのために「従順」な性格に選択された控えめな表情の犬像が一般的となり、それを反映するように、犬を模したキャラクターも同様にこれらの特徴を有するようになった。chosenはもはや、イレギュラーな、自然分娩との「差異」としての犬ではなく、むしろ犬像全体を包括するレギュラーな「本体」としての犬と言って良いだろう。

    一方で、生命倫理の観点からの批判は絶えることなく、特に2017年に発案された「キット等犬生成具による犬生成の禁止法案」は未だ可決されていないが、胎生以外による自然の摂理から外れた人間による無責任な犬の生成に関しては厳しい目線が浴びせられている。

 

    事実、犬生成キットの家庭所有は厳しく制限され、専門の教育課程を持つ期間で4年間の教育を受けたのちに国試によって取得できる国家資格「犬生成師」を保有し、5年以上の専門家によるスーパーバイズを受け、更に5年以上の犬生成専門機関による実務経験を経たものによる、業務上の法定実務における犬の生成を除く生成行為に関しては、刑法により厳しく罰せられることとなっている。

    

語りの類型

何かについて語る時、とりうる手法について4つのタイブに類型できそうだなと思いました

 

まず「語り」とは何かについて定義してみます。

ここでいう語りは、ある対象(ヒト・モノ・コンテンツetc...)について、主体的に感想や所感を述べたり、解説を加えることとします。

次に、類型するための基準を設けます。

1つは「客観性」、もう1つは「社交性」です。この基準の意味は後で述べるとして、客観性と社交性から考えた時の語りの種類は以下のようになると考えました

 

・批評
・キュレーション
・マウント
・共有

です。

 


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・【客観的で非社交的な語り】「批評」は、ある事柄について客観的な事項を踏まえた上で、対象の構造の分析や所感を抽象的に述べたてることです。批評する人は、 対象の構造を照らしだし、内的に満足感を得ることを目的にするので、社交のツールとして用いることはあまりないように思います。

関心の向きは[自分→対象→自分]です。対象を通して自分を知ったり、自分の好奇心を満たそうとする営為を批評と呼んでみます。

 

・【客観的で社交的な語り】「キュレーション」は、他者に向けて、対象の魅力を他者の損得や趣味嗜好・関心に合わせて客観的に解説を添え、他者に対象への関心を持たせようとする行為です。

関心の向きは[自分→対象→他者]です。自分が持つ対象への関心を他者にも同様に持たせようとする行為によって、社交する営為をキュレーションと呼んでみます。

 

・【主観的で非社交的な語り】「マウント」は、ある対象への関心を用いて、他者に自らの優位性を示そうとする行為です。

関心の向きは[対象→自分→他者]です。対象によって得た万能感を他者に示し、自分と他者との間に優劣をつける行為を「マウント」と呼んでみます。

 

・【主体的で社交的な語り】「共有」は、ある対象に関する主観的な所感を、他者と共有する行為です。

関心の向きは[自分→対象←他者]です。対象を中心として、所感の交換をしながら対等な関係を他者と結ぶ行為を共有と呼んでみましょう。

 

類型したから何という訳では無いし、内容が個人的すぎて分かりづらくてアレなのですが、書いてて楽しかったのでよしとします。

 

このブログはマウント的です。対象に関心を示す自己を標榜する場がこのブログなのですが、これを「共有」や「批評」の向きに変えて行ければ良いなと思います。

 

 

 

ランジャタイ国崎が毛皮のマリーズを歌う動画

ランジャタイ国崎が毛皮のマリーズの「ビューティフル」をカラオケで歌う動画がTwitterのTLに流れてきたんだけど、これがすごく良かったのでシェアしたい。

https://twitter.com/mikimarch315/status/1368041713990656003?t=2ALDtKJf9x1EBN3nh5d4jA&s=19

勉強不足で毛皮のマリーズについては全然知らなかったのだけど、国崎経由で好きになった。最近は『ビューティフル』をリピートしてかけており、上動画からはいったせいなのか、ボーカルの声が国ちゃんにしか聴こえない。なので、僕の脳内では、毛皮のマリーズがランジャタイのサブプロジェクトみたいに思えてきて、ドラムスティックを握る伊藤とベースを小気味よく鳴らすああ白木の姿が垣間見え、何かとても晴れやかな気持ちになります。

国崎さんとか、ふだんはちゃめちゃなひとがプライベートしっかりしてたり、カルチャー的なものに触れていたりすると少し嬉しくなりますね。